2011年3月28日月曜日

SAORIの女性たちの温かさ、たくましさ

先週のある日、「ナルギーザ、作業場に来る時に砂糖をお皿に入れて持ってきて」と。またいつもの突然のお茶会か!と思いきや、今回の東北大地震で大変な目に遭っている日本の為に、そして遠い国でそのニュースを聞いて心痛めているナルギーザに、と“慰めのお茶会”を開いてくれたのでした。涙 一人ずつカイグル(お悔やみ、慰めの言葉)を言ってくれる。そしてJICAを通して3000com=6000円を日本に義援金として送りたい、と。
村で道を歩いていても、口ぐちに皆がそういった言葉をかけてくれます。

「お父さん、お母さん、親戚中がキルギスに移住することがあったらすぐに言ってくれ。助けになるから」と、皆真剣。本当に人って温かいな。一人じゃない、な。

そしてこちらは500個のペンケース。仕上がりました!

ほとんどが私が2月にウズベクに行っていた一週間で織り上がり、300個という納品だったはずが、彼女たちの頑張りが一気に+200個、計500個になったのです。たくましい・・!!


先週首都に上がり、無事JICAに500個を納めてきました。
そしてお決まりの「ご苦労様会」

昨年170個の携帯ケースの時にはカレーライスを。

今回はキルギスで手に入りやすい食材を使い、鶏煮込みうどんを作りました。たっぷりの鶏から本だしもプラスして出汁を、長ネギ、大根、人参を入れて煮込むこと一時間‐

麺はさすがに”ラグマン”の乾麺を使いましたが、それでもけっこう美味しく出来たと思います。

今、私はこの10人の女性たちに支えられて活動ができている事に本当に感謝しています。

2011年3月17日木曜日

祖国を想う

普段の何気ない生活に突然聞かされた、日本の最大規模の地震、津波、そして原発の爆発。 村の人々も会う度に、家族はどうしているのか、皆無事か聞いてくる。
山梨は震度5の揺れ、地震後の市内での混乱は見られるものの、家族、親戚、友人は無事であった。

それでも、ロシアのTV局から流される信じがたい映像に、そして日々増えてゆく死者・行方不明者の数に、被災された人々。胸が痛い。

JICA本部からは、日本一時帰国が認められ、きっと任期短縮を考えたり、今すぐ日本へ帰る協力隊員も多いのではないかと思う。
キルギスのTVからも、日本への支援金を募る(日本赤十字)。

多くの、一瞬にして亡くなった命、苦しみ亡くなった命、心からのご冥福をお祈りします。
残された遺族の方々、心の傷が少しずつ癒えますよう、そして被害に遭われた町、村、これからの復興が一日も早くすすみますよう、お祈りしています。

被災地からは遠かった場所でも、経済危機に陥りこれから日本は、一致団結してこの事態を乗り越えていかなくてはならないと思います。技術や、お金が必要なのはもちろんのこと、その前に何が一番必要とされているのか。一人一人の人が、心で、気持ちで繋がり手を取り、力や知恵を出し合うことなんだと思います。

我が家、タローの最後の子供たち。
タローの連れは、先月誰かに銃で撃たれて亡くなりました。

白と黒の犬でした。撃たれたと聞いた時、ものすごく悲しくて、じゃがいも畑をいつも二人で寄り添っていたタローとオス犬の姿を思い浮かべては、彼の死を知っているのか知らないのかタローを想い、悲しかったです。
それでも、この四匹の小さな命を神様は残してくれました。今朝やっと、小指の爪くらいの眼が開いて、きょろきょろ辺りを見回しています。
タロー、悲しみを乗り越えて生きていこうね。

2011年3月7日月曜日

ウズベク最期の日 ‐いつか再び!‐

サマルカンドからは再び特急「シャルク号」に乗って首都タシケントへ!
お土産にウズベク製の物を探すが、ほとんどキルギスと売っているものが同じ。
日本の皆にはビールが良いかと、キルギスでもよく飲まれる「バルチカ7」を。

夜ごはん、Nパパが日本食のご馳走をしてくれました。
冷ややっこ、ほうれん草のお浸し、ほぐし鮭、グラタン!!旅の疲れを癒す最高の食事でした。
ここは飲み屋かな、と思うほど。Nパパの厨房に立つ姿が貫禄に満ち溢れています。
これは駒ケ根訓練所で、KZ同期がNさんの誕生日に出した招待状!
四人でNさんを囲んで、誕生日をお祝いしたのでした。その時のカードが大切に壁に貼られている・・涙
本当に有難うございます。・・と、この時なんどもお礼を言いましたが、まだまだ何のその。
これから起こる事態をこの時だれが想像したでしょうか。
ホテルにて。サマルカンドはレギスタン広場のスザニ屋さんで私達が購入したスザニ。
イメージしていた模様とは少し違うけど、これはこれで可愛らしいっす

●国立美術館にて●
ウズベキスタン最後(の予定だった)2/17日、静かな美術館にNパパと二人で行きました。
職人の国、ウズベキスタン。 とにかく細かい模様、彫りにふーっと感嘆のため息 こちらは伝統楽器だそう。なんて言ったかな・・

●スザニコレクション●

撮影料4$も惜しくない、見事なスザニ達を披露します!!

作品1. 太陽
作品2. 花と小花のダンス
作品3. ぽっちゃり壺
作品4. 森のなかにて
作品5. 雨粒
作品6. 葡萄という色
作品7. 矢車草の合唱
作品8. アフリカ
作品9. だんご三兄弟
作品10. トマトソースパスタ
作品11. Sの呪文
作品12. ちょうどいい
作品13. ダイヤモンドの指す方角
作品14. 楽しい会話
作品15. こちらは ↑ 羊毛を使った織物です
作品16. こちらもです。
作品17. そしてこちらもです。
作品18. ウズベク女性の散歩
以上!国立美術館を楽しんで頂けたでしょうか。
地球の歩き方には「防空壕のような外観、、」なんて書かれていましたが、物は見た目で判断できないものです。中身はとっても充実していました✤
●ウズベクビザの悲劇●
ウズベク滞在最後の夜(になるはずだった)2/17日。
明日は4:00起きなので・・とお酒も控えめに、旅の共が先に帰国してしまい一人残された私を、愉快なNパパの仲間達ウズベクSVや若人が送別会を開いてくれました。
翌日Nパパの迎えと共に空港に向かいました。
荷物も20kg以内に収まり、チケットもget!あと数時間後にはキルギスの風にまたふかれているなぁ。
今日の夕方はキルギス「ローザオトンバエバ」大統領謁見があるなぁ、楽しみだなぁ。
そうだ、キルギス語で挨拶を、そしてSAORIのペンケースを渡す任務があるんだった、練習をしようかなぁ。
などと、想いを馳せていた私に降りかかってきた「現実」とは‐
「ビザの有効期限が一日過ぎていますよお嬢さん」
の一言。
まさか・・・!!!でもパスポートには本当に2/16までの印字。
そこからの闘いまさに12時間、朝6:40離陸のキルギス行き飛行機は私とNさんの祈り虚しく空に飛び立ち、私はタシケント空港に取り残されたのでした。涙
どうして‐・・・?書き間違えた・・・?
悔やみきれない気持ちを抱えながら、空港での取り調べ、その後入国管理局での取り調べ。
たった6時間の有効期限切れで、まるで犯罪者のように扱われる
「罰金1000$」「今夜は留置所」 という会話が耳に入ってくる。
うそでしょーーー!!?
でもそんな現実が目の前、気を落としている暇もない
今日は大統領に会う大切な日なのに・・よりによってどうして(;_;)
結局、JICAウズベク事務所の皆さんの助けにより、明日一日延長ビザがもらえるという。
新しい航空券を買うだけで罰金1000$は免れた。留置所待機も、JICAウズベクの通訳の方の家で自宅謹慎ということで許してもらえた。
ただ、私に貼られたのは「国外退去」というレッテル。
以後最低二年はウズベキスタンへの入国が許されない、というものである。
二度と来るもんかー!!!!!
なんてゆう気持ちは全くといったら嘘になるけど、それでも結構冷静にその処罰を受け入れている自分。
とにかく、無事にキルギスに一日も早く帰りたい。
翌日、朝起きるとタシケントは一面真っ白の雪景色。しんしんしん と降る雪。
ぐちゃぐちゃした気持ち、やるせない気持ち、自己嫌悪、落胆、不安・・。
そんなものを全てゼロにしてくれるようなそんな真っ白でした。
静かに街に舞う粉雪は、みるみるうちに大きな粒となり、空港までの道を見せないかのようです。
空港に着くと、まだ何やら言ってくる空港の監視員の人たち。
でも、入国管理局のお兄さん、通訳者のヒローラさんのご尽力のお陰で全ての手続きが完了!
帰れるーキルギスに!帰るぞー!
無事飛行機に乗ったのは17時過ぎ、真っ白な滑走路を飛行機がごぉぉーと音を立てて飛び立ちました。
外からの景色を見て、少し気持ちが落ち着いた。
ウズベクの皆さん、大変なご迷惑をおかけしました、申し訳ありません。
これでもめげずにいつか再びウズベキスタンに行きたいと思います。
いつになるのか分からない、けど。
今回の旅行はある意味一番思い出に残る旅でした。
たくさん学びました!人生厳しい!
Nパパ、最後まで本当の父親のように付き添って下さったこと本当に感謝しています。
今こうしてアルシュ村で、この日の事も思い出のように語っていられる事に感謝しています。
ローザオトンバエバ大統領にはきっと、きっといつか会えると信じています。
(そうじゃなくちゃやりきれない> <)
明日は3/8「女性の日」のお祭り‐
周りの皆に感謝して、一日を過ごしたいと思います。
日本の皆さんにも、マイラム メネン!!(お祭りおめでとう)
                   ウズベク旅行記 完◎

2011年3月1日火曜日

Samalkand, the beautiful blue town.

寒い早朝、これから見る大都会サマルカンドに想いを馳せて!
特急「シャルク号」で出発です。
荷物を持ったたくさんの人、朝の匂い、日が昇る少し前 映画の中の古い列車のようでしょう~
ブハラのゲストハウスは私たちの出発に合わせて6:30に朝食を用意してくれました。有難や。
車窓からはウズベキスタンの村の風景。家畜はキルギスほど多くはないもののとっても良く似ている。
こんな感じ、アルシュ村そのものではないか!でも山がないのです、何かが足りないと思えば・・。
約3時間半、田舎風景を楽しみながらサマルカンドの地ビールを飲みつつ。
到着ー!!
サマルカンドナン、と呼ばれるほどここは「ナン=パン」がとっても有名。確かに中はもちもち、外はこんがり。パン作りに凝り始めたという我が家の父にも是非食べさせてあげたい逸品です。
お客さんの到着を待って、パン売りのおばちゃん達がすごい勢い‐!
私のパンがおいしいわよぅ!と言ってるんでしょうか 笑 とにかくパン売り競争です。 ●レギスタン広場●
常にシルクロードは商業の中心地、公共の広場として重要な機能をはたしてきたこのレギスタン広場は、圧倒的な大きさと、その青さ!
思わず、近くのベンチに座り、ぽーっとしてしまいました。
ご覧の通り、建物は三つに分かれています。
正面がおじいさん「トゥマン・アカティム」、西側・東側は孫の「ウルグベグ」さんが建てたそうだ。 こちらはおじいさんの建物。にそびえる青色のモスク。
1660年に建てられたらしい神学校「ティラカリ・メドレセ」、この学校内の礼拝所の天井です。「ティラカリ」というのは(金箔された)という意味らしい。本当に素晴らしかった。
修復された時には約3kgの金が使われた、ということ!
中世のタイル、いつの時代でもオシャレ心をくすぐる模様ってあるのね~
表面は色がおちかけているけど、それでも
とっても可愛らしい。味があります。
またまた「スザニ」屋さんです。
このおじさんも、本気なのか商売上手なのか、とても不思議でコロコロと私もこの人の話術にひっかかり、結局スザニを二枚、お土産も二つ‐・・気が付いたら買っていました。笑
私たちが買ったスザニは真っ赤な生地。後でupします!
昔、TVでこんな紺碧色の丸いドームを見た記憶がある。
いつかはきっと私もこのイスラム圏の、この紺碧の中に入ってみたい、と思っていたそんな夢がかなった!と思いました。
サマルカンドもoff seasonのため、ここレギスタンもとても静か。
小鳥たちがぴちぴち・・と鳴く青色の空間でした。
こちらはレギスタン広場の中で最も古い建造物「ウルグベク・メドレセ」
こちらも当時100人以上の学生が寄宿神学校として学んでいた場所です。中庭まで入りましたが、二階建ての小さな小部屋に当時、学生たちが2-3人ずつ宿舎として使っていたそうです。
ウルグベクさん自身も、天文学者だったそう。・・「地球の歩き方」によると、彼は恒星時一年を365日6時間10分8秒と推測したらしい。今日の精密機器で計られたものは365日6時間9分9.6秒で、誤差が1分にも満たないそうだ。 なんてゆう凄い人!
ウズベキスタンはキルギスに比べると、英語も多少通じるにしても、それでもこのイスラームの空気に包まれて、なんとも不思議な気持ちになったのでした。夜、ホテルに帰る道の途中、ぬーっと現れるこれは「ルハバット」14世紀後半の建物です。
(霊の住みか)という意味で、神秘主義者シェイム・ブルハヌディン・サガルジという人を祀ったもの。現在、周辺は伝統工芸の工房になっているらしい。こちらは夜のライトアップにより一層青みを増す「グリ・アミール」、意味はタジク語で(支配者)という意味らしい。ティムール(サマルカンド復興の父)、息子たちが眠る場所。
さて、サマルカンドももう少し見て回りたかったが、何せ一泊だけの予定、そして私がスザニ屋さんでつかまってしまった為、少し忙しい一日でした。
ブハラ3-4泊、サマルカンド2泊くらいはしたかったです。
さて、いよいよ明日は首都タシケントに戻ります!!