2011年10月9日日曜日

最終回 ‐初秋甲府より‐

最終回を書かなくちゃと思いつつ、書きたくなくいました。
これを更新したら、本当にキルギス二年間が終わってしまう気がしています。

それでも時間は流れる、今私はこうして日本に、山梨にいます。

日本に帰ってきて10日が経ちました。

変わったもの
大好きだった喫茶店シャトレと金物屋が駐車場になってしまったこと、
八百屋さんのおばさんが体調崩して閉店してしまったこと、
近所にマクドナルドが出来ていたこと、


変わっていなかったもの
おばあちゃんの甲州弁、
裏の小学校の子供たちの声、
二年前に乗っていた自分の自転車。

悲しいかな、時間は流れ、風化を手伝います。
有難いかな、私も変わり、変化を受け入れます。



●キルギス回想●

まずはこの日。八月のお祭りの勝利を記念して。
ナリンからAと、Hちゃんが一緒に参加して馬の名騎手との宴は夜更けまで続いたのでした!
それはそれは男らしい、男たちの戦いの祝杯は、最高の夜でした。
こちらは、私が呼んだ村でお世話になった大切な人たち!
まずは明るい時間に、学校の先生たち、近所のおじちゃん、おばちゃん、長老達。
次々とお土産を持たせてくれ、次々と素敵なトス(乾杯の挨拶)を言ってくれました。

ナリン市からはY子さんも駆けつけてくれて、一緒にかまどでご飯を炊くのやコロッケ作りを手伝ってくれました。
さすがに、Y子さんとのお別れには目から涙が。
私がナリンに派遣された頃は日本人隊員一人、でもY子さんが近くにいたから本当のお姉ちゃんがいるようで安心できました。
Y子さん、ナリンでまた会おうね。もちろん日本でも。いつまでもずっとずっと幸せに。
第一グループが帰宅した後に、次なるグループは若者連中。
お祭りを一緒に手伝ってくれたメンバー、村の友達、バイケ達と。T-シャツにいっぱいメッセージをくれてみんなお金なんてないのに、くしゃくしゃになった50comを集めて、これで何か買えと。
その気持ちが嬉しくて、思い切ってそのお金全部使って銀のネックレスを買いました。
今でも毎日、つけています。次の日はSAORIの女性たちと。
ナルギーザの車のシートに、とシュルダックの2つセット!とってもとっても嬉しかったんだけど、この日は夕食会始まる前から、涙腺緩みっぱなし。年長のDエジェが一番最初のトスを言い始めた瞬間に私は泣き崩れました。笑
最初から泣いてて、最後まで涙がもつの!?なんて冗談言われながら、とにかく最後には顔の皮膚が塩分でしみました。胸がいっぱいでした。女性本来の手の器用さ、母としての思いやりの深さ、そして環境厳しいナリンの村で生きてゆくたくましさ、私はSAORIの女性たちから学ばせてもらいました。

日本に普通に暮らしていたら分からない、人間としての基本の姿勢。

まだ後任もはっきりと決まらない、もし決まっていてもいずれは完全に独り立ちしてゆくこの組合の、道はきっと楽ではない。でも、楽な仕事なんてどこにもない。彼女たちならきっときっと力強く継続していってくれるだろう。そう、願う。

そしてそう信じなくては、私も前に進めないから。Amantyr baike とGylshaar eje、私のキルギスのHost parentsです。
いつも困ったら支えてくれて、ダメなことはきちんと叱ってくれて、時には一緒に遅くまで語りあったり、料理を教えてくれたり。この家で良かった、感謝しています。心からrafmat.出発の日の朝、もちろんバタバタ!
理想では、朝は余裕でお茶を飲んで、時間を持て余してホウキで部屋掃除〜♪なんて、一年くらい前から想像していたのに、結局、迎えのタクシーの運転手さんに1時間遅く来てもらうはめに 片付けの最中、グルジャズとベックヌルはちょこちょこ部屋にきては
「本当に帰っちゃうの。帰らないで」と。

今日はさっぱり、お別れ言って潔く車に乗り込むんだ!
と決意していたので、そんな子供たちの声も元気よく跳ね返しました。
「帰るの!時間がきたんだから帰るにきまってるでしょ」でも、やっぱり心残りは1週間前にだんなさんを事故で亡くしたJエジェのこと。
未亡人になった女性は一ケ月家から一歩も出ません、黒い服を着てずっと、ずっと、悲しみの中に身を埋めて家にいます。
皆に挨拶する前にJエジェの家に。Jエジェが煎れてくれた一杯のお茶の味は、寂しくて、切なくて、飲み干すのに精一杯でした。
玄関先、普段は忍耐強いJエジェの目から涙、「どこにも行かせたくない」って。
私だってできることならせめて後一ヶ月、側にいたかった。時間が許すものなら、毎日彼女の家に行って、毎日一緒にお茶を飲んだのに。


本当に辛い瞬間だった。泣くまい、と涙をおさえて喉が痛んだ。
後ろ髪引っ張られながら、涙を袖でふいて見送りに待つ皆のところへ。3/4まではしっかり笑顔!
ところが、ここでは長老のおじちゃんが厚い牛乳瓶のようなメガネの奥に見せた涙が、そして皆が私を囲んで手を合わせて帰路の無事を祈るオーミンをしてくれた時、もうだめ。
わんわん泣いてしまいました。
無口な我が家のグルジャズも、目を真っ赤にしながら私の首にカメラをかけてくれました。有難う、アルシュ村。とりあえず、さようなら。
またきっといつか帰ってくるよ、この大好きな大好きな村に。
山も、空も、土も、人も、変わらずに。どうか、変わらずにいてください。
素朴でたくましい、温かい、情けない、美しい、どうしようもない、この村はいつまでも私の心の中の、お守りです。途中ナリン市では、村のお父さん的存在だったテミクバイケと。
次にキルギスに行く時にはテミクバイケに望遠鏡を持っていってあげるんだ。
私には、子羊の足がそのままついた鞭をお土産とお守りに持たせてくれました!
空港の検査で通るかな・・そればっかり心配していましたが、ナイス神様!サンキュー!通った。BKのバザールで、ナリン産のクムズ(馬乳酒)を。
ずっと飲んでいたい、ずっとクムズを飲んでいたい!私はクムズバカです 笑

モスクワの空港までずっかり抱えて、最後の一口まで飲みました。惜しくて惜しくて、なかなか手放せなかった。

バタバタと、その日の夜もホテルで最終荷物詰め。
もう、本当に帰るしか道はなかった。同期四人と一緒に、複雑な気持ちと眠気と寂しさを抱えモスクワ空港に。
私たち四人は本当のお酒が好きで、これまでも繋がっていましたが、同期S&Yっこは最後のホテルでまでウォッカを飲んで上機嫌&号泣。笑 さすがに私は一杯だけにしておきましたが、空港のカウンターでは「あなた達、お酒臭いわ!?」と言われて笑うしかなかったです。


それにしても、またモスクワでもビールで乾杯。
その時気持ちが少しだけ落ち着いたのを覚えています。成田行きのDゲートには、見慣れない日本人がいっぱい。
日本語がたくさん聴こえる、日本が、近くなってくる。そして、成田。
二年間本当にご苦労様でした。体調を崩しても、へこたれそうになっても任務を全うできました。
始めの日本食は、ネギトロ丼!!うひゃ~美味・・ 涙 夜は各国から帰国し隊員仲間と居酒屋へ。
エルザルバドル、ベネズエラ、ウズベキスタンからの同期と乾杯!私たちの通った甲府西高校近くのラーメン上田家へ。
なんと。この二年ぶりのラーメンには心から感激いたしました。地元にはこんなに親切な看板はあるし、笑 実家の父の作る餃子は相変わらず絶品だし、お刺身も、天ぷらも、うどんも食べたいそんな私に気の効いた三食丼セットなんてゆうものもあるし、
(Kさん、ご馳走様!!) 大好きなおじいちゃん、おばあちゃんも、甲州弁丸出し元気いっぱいだし!
(なぜか私はJica T-シャツですけど)


どうやら、ここでの生活が始まりそうです。
今は、自分の新しい住処となる古民家を改修、リモント中。
それに一生懸命体を動かして、上手に日本社会に?日本の生活にもう一度慣れていきたいと思っています。

ここでも自分が信じる、納得できる生活が送れるはずだと思っています。
畑を耕して野菜を作りたい、古い小さな家でなるべく質素に暮らしたい。

アルシュ村の人々に教えてもらったこと、見て感じてきたこと、そして心の中で納得できるもの、それをこれからは自分のパートナーと一緒に、生活の中で実現させていきたいと思います。二年間という与えられた時間の中で、かけがえのない仲間と出会えて、とても興味深い仕事に携われました。間違いなく、私の人生の財産となりました。
これからの生き方に多大なヒントと、勇気をもたらせてくれたことを、出逢った全ての人に感謝したいです。

大丈夫、キルギスは逃げないから。
またいつか大きな笑顔で会いにいったらいい。大好きな皆に会いに行ったらいい。最後に、このとりとめのないblogを読んでくだった皆さん、遠く離れていても応援してくださった皆さん、どうも有難うございました。

少しでもキルギスの風が届けられたでしょうか。
皆さまの健康と、これから訪れる小さな幸せと、新たなる冒険を心からお祈り申し上げます。そして日本の未来と、キルギスの未来に。

Chon rafmat.


Nargiza なぎさ

2011年9月27日火曜日

モスクワ空港にて

最後の10日あまり、パソコンを開く時間もろくにとれず
家族のような存在になっていた村の人々とのお別れに泣き、SAORIを想って泣き、荷物も(予想通り)バタバタもいいところ、訳も分からずとにかく詰め込んで
気が付いたら今、モスクワの空港にいます。

どうやら夢ではなさそう、今朝キルギス・マナス空港から飛び立ってしまったようです。
同期四人一緒です。さっきはビールを飲みました。そしてその後は急に寂しくなってトイレで泣きました。

近づいてくる日本を考え、遠くなってゆくキルギスを想い
今のこの気持ちは、どういう風に表現したらいいんだろう。

大好きなアルシュ村でたくさんの人との抱き合い涙し、色々な事に心配をし、時間の流れにため息し、その度に募り込み上げる想いと気持ちが溢れだし、何だか最後は体全身が麻痺して、耳がよく聞こえないような感じ。

気持ちの浮き沈みの激しい、 9月一カ月でした。

と、感傷に浸っている真っただ中ではありますが
このblogの最終幕として、アルシュでの送別会、大好きな仲間との時間、
「キルギス回想編」を、日本からお送りしたいと思います。

今、モスクワ空港からは慣れ親しんだキルギスの山々を見ることはできず、整然と、ぴっかぴかに清掃された空港内で、外国を感じております。
それでもまだキリル文字。

PM8:00出発、明日の午前中には成田着です。

瀬戸内寂聴さんの言葉で
「人も、事件も、思い出も、あらゆるものは過ぎてゆく。何処へ。それが分からないから、人は生きてゆける」というのを、だいぶ前に聞いた事を思い出しました。

まだまだ気持ちはアルシュ村の、二番目の井戸の前に位置する我が家に、SAORIの作業場にあります。が、上手にこの二年間の日々を私は忘れていきたいと思っています。

そうしないと、これまでの私と全く同じ。
過去を引きずって前になかなか進めない。

だから、寂しいけど、そしてできることならアルシュ村に飛んで帰りたいけど、時間が手助けしてくれて、人も、思い出も、ゆるやかに過ぎ去ってゆくことを祈ります。

日本に着く頃、笑顔でいたいと思います。

それでは。

2011年9月20日火曜日

明日は村人を招いて。

アルシュ村を去る日が一日、一日、一時間、一時間近づいていることが嘘みたいで、
それでも感傷に浸れば浸るほど、顔も暗くなりそうだし、お世話になった親戚、近所の人たちに、ちゃんと言葉にして挨拶できなくなりそうだと、分かっているので、テキパキ行動している最近の自分です。

驚きの事実!部屋の中も8割片付きました。 今日は、おばあちゃんの家に行ってカレーを作りました。
報告会の準備、間に合うかなー・・・ 
部屋の片づけ残り2割、これこそが実は勝負だなー・・

なんて思いながらも、しっかりと親戚の子供たち、おばあちゃんとくつろいだ時間を過ごしてきました。停電だったせいもあって、かまどで火を焚いて大きな鍋でカレー作り!
お米も、洗面器とバケツで洗います。
夕日の沈む頃、わいわいと皆で楽しい食卓を囲んだのでした◎幸せなり

ジャーマットの仕事、まだまだやり残していることがある。
細かい書類も、商品の寸法が書いてある紙も、ジャーマット内の規則の紙もprint outしなくちゃならない。注文の品も、オーダーしてくれた人たちに渡さなくてはならない。

私の時間はそろそろ終わりを告げようとしているのに、仕事や、注文してくれる人からの動きは何ら変わりはないのだ。

なんか、その事が嬉しい。


明日20日は、村人に日本食を振る舞ってお別れ会を開きます。

メニュー:きゅうりの漬物、キャベツサラダ、コロッケ、炊き込みご飯!


今日はその為にナリンに買い出しに行きましたが、キャベツ7kg、きゅうり10kg、お菓子計5kg、ウォッカ6L、ジュース7L・・とどう考えても30歳手前の女が一人で持ちきれる量ではない、凄まじい量の買い物をしてきました。はい、もちろんただ今筋肉痛!涙


明日は、しっかり笑顔で村の人たちと過ごしたいです。

2011年9月18日日曜日

涙のSAORI

ここにきて、こんな試練が待ち受けていたとは。

最後の首都練習で一緒にBKに行ったジルドゥスエジェ
ジャーマットの中でも一、二に生活が厳しく、四人の子供を抱え小さな家で暮らしている。

そのだんなさんAバイケは、酒飲み怠け者で村でも有名でした。
その日も同級生のアルマズバイケの手伝いと言って家を出て、昼からウォッカをひっかけ草刈りに。
同級生のアルマズバイケと、我が家のお父さんと、酒飲みAバイケは三人トリオでいつも仲良し。

私は何気ない一日を、いつものように大半を作業場で過ごしていたのでした。
夕方、焦った声のジルドゥスエジェ、Aバイケの奥さんGエジェの電話番号を教えてほしい-
このGエジェもSAORIのメンバーで時期リーダーに選出されたお母さんですが、この半年間ほど二人はだんなの酒飲みについて口論し、しばらく口をきいていませんでした。

たった10人の中での喧嘩はすぐに雰囲気も悪くするし、働いていても気持ち良くないから
どうにか周りも仲直りさせようと他のメンバーが仲裁に入っていたのも私は知っていました。

ところが
事態はもっともっと悪い方向に。

その日も酔っ払ったAバイケが、アルマズバイケ運転のトラクターの荷台に積んであった干し草のてっぺんから地面に落下した、と。しかも普通に落ちたのではない、打ちどころが悪く重症らしい。
慌てたジルドゥスエジェも男性陣と一緒にナリンの病院へ、我が家のお父さんも。

とにかく待つことしかできない私たちは家で、電話の鳴る音だけを待って、祈って、待っていました。
夜にはお父さんが帰宅、私は直接見ていないけどどうやら泣いて帰ってきたみたい。
ナリンの病院はお手上げで、すぐに首都へ搬送された、と。Aバイケの眼がお別れを言ってた、って。
首から下が全く動かない状態になってしまったのです。

今朝まで普通に道でトラクターを囲んでいた・・いつもの緑色のシャツを着て元気そうに歩いていたのに。
とにかく首都に運ばれて、翌日大手術、手術の成功確率は50%とお医者さんに言われて。

奥さん同士ジャーマットのメンバー、ここ半年の二人の関係、この事件をきっかけにますますSAORIにも悪い厚い、暗い雲が覆ってきていた。暗い、寂しい、作業場の雰囲気・・

それでも手術は無事終了、うちのお母さんも手術後はそのバイケとも少し話したみたい。
どう?という問いにジャクシュ(良いよ)と答えたAバイケ。

だから私もほっと一安心、よかった、50%の成功の方にサイコロが投げられたんだ・・。
私が村を出る日までにジルドゥスエジェにも戻ってきてほしい、車イスの生活でも、しばらく寝たきりの状態でも、だんなさんのAバイケも一緒に帰って来て欲しいって本当にそう願って。

一昨日、首都で細かい仕事や買い出しを終えて、さぁマルシュで事務所に帰ろう~と
ウォークマンの音楽、軽快な私に、村の友達から電話。

「ナルギザ、Aバイケのこと聞いた? -今朝、亡くなったって」
「うそ言わないで、手術成功したって言ってたでしょ??なんで亡くなるのよ」

目の前が真っ暗
ジルドゥスエジェのこれからは、四人の子供たちは、そして奥さん同士の関係は、ジャーマットは・・

とにかく、何もしっかりと考えられず、耳がよく聞こえない。
お母さんに電話しよう、私が村人を食事に誘って感謝会とするプランも、今はそんな事言っていられない状態になってしまった。
お母さんに電話すると、泣いて泣いて言葉が出てこないお母さん・・
まさかの死に村中がショックに包まれているって。

なんで・・・。。。

一刻も早く村に帰りたい、ジャーマットのメンバーの近くにいたい、ただでさえ残された時間は少ないのに、最後のお別れは二年間の感謝は笑顔でしっかりとしたいのに。

事故は、容赦なく訪れた。そして最悪の答えを出した。

昨日、だから急いで夕方タクシーに飛び乗ってナリン行きの長距離タクシー出発のバクザルまで、と伝えた。
午後3:00を回った頃のこと、日本週間という首都での盛大なお祭りの開会式にも出ず、焦ってナリンへと急ぐと、私が乗っていたタクシーが信号で前の車、しかも運悪く警察の車に追突-

幸い、お互いの車にかすり傷で済んだけどその瞬間にハッと私は目が覚めた
「今日は村に帰るな」のサインを出されているんだな。しかも昨日は首都は珍しくどしゃ降り。

落ち着けー私。焦ってどうするの

なので今日、気持ちを入れ替えて、晴れ渡った空のもとビシュケクを後にし家に帰ってきました。

Aバイケは今日の午後、村の男の人によってお墓に埋められ、昨日までそれはそれはたくさんの人がお別れに来たと。ジルドゥスエジェも気丈に振る舞っていると。

明日、コーランを読みにジルドゥスエジェのところへ行ってきます。

お酒飲みだったけど、どうしても愛されキャラだったAバイケの若い魂が、心配することなく成仏できますように、私も手を合わせてきたいと思います。

沈んだジャーマットのメンバーに、残されたたった一週間で私に何ができる。
自分も悲しみの波の中に埋もれていてはだめだけど、今はどうしても力が上手く入らない。

2011年9月10日土曜日

挨拶回りの気持ち

いよいよ、お世話になった人たちへの挨拶の時がきたよう。
まだ他人事のようにしか思えず、感情が鈍い、悲しい気持ちや寂しい気持ちが鮮明ではなく
今のこの気持ちは、私のものではないのかも。?

ばたばたしたまま首都に上京、職員、SVの方への感謝食事会。

それが・・感謝の言葉を述べる頃には四人ともだいぶ酔っ払い、言葉にならずに

「乾杯」by長淵 を歌いました。

本当に最後の最後まで、お酒に楽しまされ、酔っ払わされた私たちでした。

夜中まで、続いた宴会!

話は少し変わり、首都の象徴的銅像が取り壊されこのようになりました!

前は、自由の女神がキルギスのボズウイの天井部分(トンドゥック)を持って飛び立つような銅像でしたが、女性はトゥンドゥクを持たない、という理由から・・キルギス英雄マナスが立ちました。

最後の首都練習は、二回目のアイムエジェとジルドゥスエジェ。

三日間の強行な首都での買い出し、納品は、とにかく体力勝負。本当に疲れるー!!

でも、マディナバサールの有名なラグマンをたらふく食べて復活。

麺が手打ちのトロンとした、具もたくさんの、180円のラグマン。この味を私はきっと恋しく思うんだろうな。二年間だけのキルギスなのに、胃や目や気持ちは正直に、日本にないものを欲するんでしょう。

SVのHご夫妻

本当にお世話になりました、キルギスJOCVのお父さん、お母さん!

いつも美味しいご飯と、お二人の仲睦じい姿に、実家に帰ったような気持ちで過ごさせて頂きました。マディナバザールの、中国製糸の売り場のおばちゃん:アセルエジェ

いつも荷物を置かせてくれて、私を心配してくれて本当に有難うございました。

写真屋のおばちゃん;名前不明、ロシア人

言葉が分からず、まともに話もできないのにいつも質問の嵐!大好きなおばちゃん。

キルギス製糸のお店のおばちゃん:ベネラエジェ

今後は、工場にそのまま買い付けに行くと決まった私たちですが、この二年間はBK上京の度にここでキルギス糸を購入していました。昨年お財布を盗まれた時、誰よりも心配してくれたおばちゃん。

ずっとここで糸を売って生きていくのかな。

村の生活残り13日。

お世話になった人たちへちゃんとお礼を、仕事のまとめを、家族への感謝を、崩れず、弱くならず、しっかりとしていたいと思います。

2011年9月2日金曜日

季節の変わり目

先週、お昼休憩に家に戻ると近所のおじさんが
「今からブグ(トナカイ)を見に行くから支度しろ!」と。笑 隣の、隣のカリニン村にトナカイ公園があることは知っていましたが実際に行ってみると、なんとものどかな場所でした。お祭りを終えて、ゆっくりお茶を飲んで、空を眺めたり、川の音を聞いたり、そんな時間に心癒されたのでした。


生まれて始めてみたのかなートナカイ!


そして夕方は、家に帰ると女性達がシュルダックを作っていました。

長い冬がきたらこうして外での作業は全くできなくなります。

初秋の今が、作り時!夏の毛刈りを終えた羊の毛、大量なその羊毛をゴミ取り、洗い、すだれの中に入れて丸め、まずは男性が蹴って固めます。その後、お湯をかけつつこうして女性が四人がかりで、1,2,3と声をかけつつさらに固めていくのです。 ふふふ。私も挑戦




でもなかなかハードな運動!笑


日本ではフェルト製品はとても高いのです、なぜってやはり羊毛が少ないから。キルギスでは、充分すぎる羊に囲まれての生活なので、フェルト作りも日常の中にありました。
ほかほかフェルトの出来上がり。この丸まった淵の部分からも最後に熱湯をかけ、固めます。凝縮された、密度の濃いフェルトが良いとされるのです。



こんなに大きく長いチー(=すだれ)

天日干しされた巨大キース(=フェルト)

ちなみにこれは、我が家のグルジャズの嫁入り道具として持たせるための準備だそうです。


チチチチー!!納屋では秋を前にひよこが四羽誕生しました。

お祭りで売られるような、イラストのような黄色いひよこ! ぴよぴよ(・2・)

そして今日、9月1日は村の学校の入学式に行って来ました。

高い高い秋の空に思わず、足がとまります。


今年の新一年生は五人。疲れ知らずの、わんぱく、可愛らしい一年生。


私の大好きなアルシュ村。


明日から4日間、再びSAORIの女性と一緒に首都へ。

おやすみなさい